旅順口区 (Lüshun)
旅順口区は長らく閉鎖都市であったが、旅順口区政府は2009年3月20日付の招待会で、旅順口区を外国人にも開放し、軍事禁区以外は外国人も訪問できるようになったと発表した. しかし、この発表は大連市や国家レベルの承認も得たものでない旨、日本領事館大連事務所から注意喚起されている. 市および国家からの正式文書を得た段階で、下の「現状」にある訪問制限の記述も変更される.
近代に入るまで、目立った歴史は記されていない. 1858年から1860年まで戦われたアヘン戦争時、イギリス海軍のアーサー中尉(William C. Arthur)指揮するフリゲートが寄港したことで、ポート・アーサー(Port Arthur, Порт-Артур ポルト=アルトゥル )の名称が欧米に知られるようになった.
もともとは人家もまばらな、寂しい漁村であったが、1878年に清の北洋艦隊の根拠地となったことから、町が形成された. 日清戦争中の1895年には、日本陸軍に占領された. この際、欧米記者によって、日本軍が行ったともいわれる旅順虐殺事件が報道され、問題となったが、日本政府は事実無根であるとした. 下関条約により、旅順を含む遼東半島は日本に割譲されることに決まったが、三国干渉によって中止となる. 1900年の義和団の乱ののち、ロシア帝国の租借地となり、ロシア海軍の太平洋艦隊の根拠地として、軍港・要塞として開発され、日露戦争当時は人口1万人を超えるほどの街に発展していた.
日露戦争においては、日本軍による旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦および旅順攻囲戦が起こった. 市郊外の丘陵である203高地などでの激戦の末、最終的に日本軍が莫大な損害の後に勝利したことにより、1905年1月に旅順を占領した. 旅順北郊外の水師営で停戦条約に調印し、乃木希典将軍とアナトーリイ・ステッセリ将軍が会見している. 日本は同年のポーツマス条約において、清に対する租借権を正式にロシアから引き継いだ. はじめ、旅順には関東都督府が置かれ、その後、大連へ関東州の諸施設が移るに従い、旅順は日本の軍事的拠点となり日本海軍により旅順要港部がおかれ、龍河・旅順駅・白玉山一帯をはさんで、東の旧市街と西の新市街は大いに発展した.
第二次世界大戦末期の1945年、ソ連軍が侵攻し、旅順を占領した後は、ソ連海軍の太平洋艦隊の軍港として中華民国に認めさせた. 1950年に隣接する大連・金州と合併、旅大市となり、1955年に中華人民共和国に返還される. 1981年に現在の市名である大連に改称され、大連市旅順口区となった.